由紀子のブログ

父の命日は私の誕生日

本日シジュウ、、

40歳の誕生日を迎えた由紀子です。


そして、父がこの世を去ってから

ちょうど10年です。

そうなんです。

30歳の誕生日に父は亡くなりました。

ボンヤリしている私に覚えやすいように、

忘れないように

最期の心配をしてくれたような気がします。



夏は自前のボートで
釣りに行き、

冬は鉄砲片手に、
犬ととも山をに駆け回り、
猪や鹿を獲ってくる

誰よりも頑強な父が

余命6ヶ月の宣告を受けたのは

高野山の山がけに行った後の

58歳の時でした。


何だか今年はしんどいと言って帰ってきました。


目は見えにくいし、

関節も痛い。

大嫌いな病院に行った時は、

肺に大きな癌が陣取り、
脳にも数十個の腫瘍が転移し、
関節にも転移が見られました。


「あと、半年でしょうか、、、」

そう医師に余命宣告を受けた父。



「入院して、抗がん剤や、放射線を受ければ治りますか?」


「・・・少しは長く(余命が)なるかもしれませんが、
治りません。」


「・・・そうですか。
では、私は何もしません。」


そう真っ直ぐ医師に告げる父を

母と私は言葉なく見つめるしかありませんでした。



家に帰ると飼っていた犬のチビを

狩猟仲間にもらってもらい、

釣りの道具を整理し、

誰にもらってもらうかの札を付け、

どんどん整理していました。


涙も泣き言の一つも口にはしませんでしたが、

遠い病院にも足を運び、

東京に自分の尿からワクチンを作りに一人で行き

高額な料金を払っったりと、

やはり生への執着はあったようです。



しかし、大きな痙攣が起きてからは

大量に飲んでいた漢方も、

ワクチンもしなくなりました。


それでも、痛みはなく、

食欲もありました。


できる限り旅行にも行きました。

森のきれいな空気を肺一杯に吸い込み

「この、空気で癌が治ったらいいのにな~」


と呟く父に心が痛みました。




半年が過ぎ、

1年が過ぎ、、、。

脳の腫瘍が大きくなるにつれ

嘔吐、吐き気に苦しそうでした。




車の運転もできなくなり、

道もわからなくなり、

それでも、

お友達が美味しいものをもって、

来てくれた時にはいつも笑顔で嬉しそうでした。

タケさんの不動産鑑定士の
試験の合格の報を届けたのもこの頃でした。



筋肉モリモリだった体が
ホソホソになり

自分の足で立てなくなって
寝たきりになっても、


「最後まで家で過ごしたい」

という父の願いを叶えようと、

母は頑張っていました。



私も神戸、加古川から姫路へ週1回、

お風呂に入れるため通いました。



亡くなる3日前までご飯を食べ、
コミュニケーションもとれていました。


意識が遠のき苦しそうな呼吸が何日か続きました。


「お父さん、私の誕生日はやめてね~」

と冗談で言ったら、、、本当に、、、。



在宅でお世話になっていた先生は、


「お亡くなりになってからでいいです。
脈が止まったら連絡ください。
その時間も見ててくださいね。」


私も助産師でしので、
ある程度の知識はありましたし、
脈もとることはできました。


しかし、止まっては動き、動いては止まり、、、。


若いので心臓機能が強かったんですね。

「止まった!何分?あっ!違う違う。また動き出した!」

もう家族で最後は泣いたり笑ったり、、。


母と、私と、娘(3歳)、タケさん、
それから、
父の両親(おじいちぁん、おばあちゃんが同居でしたから)に見守られ、



家で逝きたいという想いも遂げ
最期を迎えたのでした。


「あ~、楽になったね。しんどかったね~。よかったね。」

3歳の娘はタッとスリッパを履いて
庭に出ていくと、
お花を数輪つんできました。


それを父の上に置いてくれたとき、

涙が出ました。



父は幸せだったと今も思えます。

そして忘れようもない命日を選んでくれてありがとう。


自然に、干からびるように、命の終わるのを見て、

私も、出来れば、こんなふうに逝きたいな、と思いました。






今朝のお庭です。
暑さでみんな弱っていますが、
ツルバラのカクテールは伸び放題。






お隣さんの、素晴らしい
ゴーヤのカーテン!
上手にお育てです。




種までかわいいフウセンカズラ。
ハートの模様がついています。

Share Button